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終戦という敗北の日

終戦の日も天気の良い晴れた日だったように記憶している。
小学(国民学校)二年生の7歳、とにかく日本は負けないと教えられていた。
一億総玉砕などと勇ましいかけ声と共に銃後の女性達は竹槍訓練に励んでいた。
次女の姉と一足先に疎開していたのだが、
何に使われるかは知らないまま、イナゴとり、クワの枝の皮むき、松ヤニの採取など
そして鍋釜に至るまで鉄という鉄は供出させられた。

両親や兄弟姉妹達も度重なる東京空襲に順次田舎に疎開をして来た。
ことに3月10日の大空襲は10万人以上の死者を出した。
その後も大規模な空襲は幾たびか、とうとう最後まで残っていた両親と長女の姉が疎開してきた。
幸いにも家族7人は戦争による犠牲を蒙らなかった。
そして8月15日の玉音放送を聞いたが、その意味は親から説明された。
堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍んで・・・。
子供心には信じられない事が起こったという感覚と、
戦争は終わったんだという家族の安堵が伝わってきたように思う。
全財産を失い苦難の戦後が始まった日でもあった。

南方戦線、中国戦線、旧満州戦線での悲劇悲惨に較べれば、
そして祖国の未来を信じ、家族や恋人と別れなくてはならない運命を背負わされた
兵士達のことを思うと今でも心が痛む。
特攻などという無謀な作戦にも追従せざるを得なかった多くの戦士たち。
知覧の特攻基地を飛び立っていった多くの若者、17歳という最年少、まだあどけない若者も居た。
20歳前後の若者を始め、妻子のある30代の指揮官まで沖縄の海に散った。
やりきれない感銘を受けるのは、どの顔もきりりとして、残した文章も立派、
悔しいのは、終戦がもっと早く行われていたら。何故出来なかったか。
今さら言っても詮無いことだが、その辺りの解明検証を行い、後世に伝えるべきだ。

完全敗北の終戦日、これはむしろ戦後復興のバネになったことも否めない。

あの戦争を知り、戦争悪を徹底的にたたき込んでいる我が身は靖国神社を許せない。
政府要人や政治家の多くが何故に靖国神社を奉ろうとするのか理解できない。
靖国は戦争遂行の精神的柱であり、軍人魂と言われた根幹を担った。
靖国に奉られるという美名で多くの戦士は散っていった。
だが戦争犠牲者は軍人だけでは無い。
そのために戦没者慰霊という形で鎮魂が成されている。
戦士には宗教色の無い、過去に憂いの無い国立墓地の構想はどうなった。
憲法の言う信教の自由を侵していると考える。

国立慰霊施設を安倍首相は言下に否定した。
参拝はしないが玉串を奉納した。これは参拝と同じ意味と行為である。
子供だましも休み休みにするが良い。
卑怯者である。この様な人々の集団が戦争をおっぱじめるのだ。

靖国神社は右翼思想の総本山、だから右傾化と騒がれる現政府や政治家は無にできない。
しかしながら、少数派かも知れないが、戦士は別の形でキチンと慰霊すべきと考える。
天皇陛下、皇族はなぜに靖国に向かわれないのか、
それに反して何故に政府要人や一部政治家は詣るのか。
明確に答えて貰いたい。














東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上と著しく多い1945年3月10日の空襲を指すことが多い[1]この後の第九週の後最後まで残っていた

by tomiot3 | 2013-08-15 19:31 | よもやま・つれづれ | Trackback | Comments(0)