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三善晃氏逝く

作曲家・文化功労者の三善晃氏が去る10月4日世を去られた。

三善先生と言えば、オーケストラや合唱曲では論理的で有りながら、
その奥行きは戦後作曲界に於いて、他の追従を許さなかったのでは無いか。
ことに合唱曲はざっと数えても104曲ののぼる。
しかしながら、歌った曲は余り多くなく、記憶にあるのは混声合唱組曲《嫁ぐ娘に》はハッキリ覚えている。

全日本合唱連盟の会合ではご一緒した事が幾度か有るのが今となっては懐かしくかつ誇りに思う。
寡黙ながら、威厳に満ちたオーラが絶えず会場を覆っていた。

一番の想い出は、鳥取県立県民会館(現とりぎん文化会館)がオープンした平成5年(1993年)、
その記念行事のひとつとして、小ホールで三善先生の講演会(県主催)が催された。
恐れ多くも不肖私が司会役を務めさせて頂いた。
決して上手でない司会で反省しきりだったことが想い出される。
そして、その夜は楽しい主演で親しくお話しさせて頂いた。
先生は当時はたしか桐朋学園大学の学長をしていらっしゃった。

一方、著作も多く、中でも『男の料理学校 自分の味を創造しよう』が突然変異的であるが、
実は先生はグルメなのであった。
そして(1996年には東京文化会館の館長に就任され、大改修をされたり、
運営内容の一変に流石と思ったことがある。
三善晃先生のご冥福を心よりお祈り致します。

毎日新聞
訃報:三善晃さん80歳=作曲家、文化功労者
毎日新聞 2013年10月05日 18時49分(最終更新 10月06日 01時08分)
 鋭利な感性と繊細な音色が溶け合う独自の作品により内外から高く評価された作曲家で、文化功労者、日本芸術院会員の三善晃(みよし・あきら)さんが4日、心不全のため亡くなった。80歳。葬儀は親族で営んだ。喪主は妻由紀子(ゆきこ)さん。お別れの会を後日行う予定。

 小学生のころから平井康三郎に作曲を習い、東京大仏文科在学中の1953年に第22回音楽コンクール(現・日本音楽コンクール)1位となり一躍注目された。翌年、尾高賞を受賞、同賞の受賞は6回と最多になる。55年からパリ国立音楽院に留学、アンリ・シャランに師事、アンリ・デュティユーの影響を強く受ける。帰国後は毎日音楽賞、芸術選奨文部大臣賞、NHK作曲賞、日本芸術院賞、サントリー音楽賞などを次々に受け、“受賞魔”の異名をとった。

 代表作には、詩の文学的解釈に大きく踏み込んだ「白く」などの歌曲、精緻な技巧が革新的な音色を引き出すバイオリン協奏曲、オーケストラに児童合唱を入れて童謡を異化し現代への鏡とした「響紋」や、自己の戦争体験を凝視した「焉歌(えんか)・波摘(なみつ)み」など、反戦を通奏低音とするオーケストラ作品、遣欧使節の仙台藩士・支倉常長を描いたオペラ「遠い帆」などがある。また多くの合唱曲も合唱団の欠かせないレパートリーになっている。

 東京文化会館長や桐朋学園大学長、日本音楽コンクール委員長などを務め、後進の指導にも力を入れた。2001年に文化功労者。文章家で著書も多く、趣味の料理レシピを集めた本もある。【特別編集委員・梅津時比古】

◇作曲家・池辺晋一郎さんの話

 戦後の作曲家という枠を超え、日本の音楽史の中で最高の才能を持った一人でした。優れた感性と冷静な論理性を兼ね備え、音楽的な技術に付随する教養・知性も圧倒的でした。その才能は、オーケストラから合唱曲まで、すべての曲に表れている。二十歳の時から師事してきたので、寂しさがこみ上げています。
その学識は遙かなものであるが、

by tomiot3 | 2013-10-09 10:21 | 音楽よもやま | Trackback | Comments(0)