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スポーツマンシップ

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松江出身のテニスプレイヤー錦織圭さんが、全米オープンで8強になったとき、
92年ぶりの快挙と讃えられた。
そうだそれはきっと清水選手の話ではと思った。
小学校の時、教わった教科書に、相手選手が転んだとき、立ち上がって打ち返せる緩い球を返した。
そのフェアプレーな精神が教科書に載っていたのだ。
教科書の英雄伝などは、どうした訳か、相当ハッキリ覚えている。
今にして思うと、その様な話に少年は目を輝かしていたのだろう。

清水選手のことを知りたくなり、ネットで簡単に見つけることができた。
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1920年代、ウインブルドン庭球大会やデビスカップ杯争奪戦で大活躍し、世界の庭球界に大さな足跡を残した清水善造は、また数々の伝説を生む男でもあった。
 そのうち最も有名なのは、大正9年(1920)のウインブルドン大会挑戦者決定戦で米国のW・T・チルデンと対戦中、転倒したチルデンを見て彼が起き上がって打ち返せるような、ゆっくりとした球を送ってやったという話であろう。 この話は舞台を翌年のデ杯戦に変えられたりしながら、戦前、戦後の教科書に「スポーツマンの精神」、「美しい球」、「やわらかなボール」などの題名で度々載り、美談の典型として多くの人々の記憶に刻みこまれた。
 この話とは別に、彼の死後しばらくして 『朝日新聞』(昭和52年4月26日夕刊)は「清水氏はチルデンに勝っていた」という大見出しの記事を掲戴して、その死を悼んだ。
 それによると、1921年のデ杯決勝戦で再度チルデンと戦うことになった清水は7-5、6-4と2セットを連取。三セット目も5-4となったあと、マッチポイントをにぎった清水のサーブはエースとなってセンターラインをかすめ、敗れたと思ったチルデンは清水に握手を求めるためネットにかけよった。しかし、アジア人にデ杯を渡したくなかったネット・ジヤッジが「レット」(打球がネットに触れるとサーブをやり直す判定)と宣告したことにより再び清水のサーブで試合が続けられ、結局この一球を境に試合の流れがチルデンに傾き、清水は敗れたというのである。当日、ネット・ジャッジをつとめたC・N・フオーテスクの「告白」によるという「この記事を読んだ人々はますます清水の偉大さにうたれたのであった。


日本人選手はあらゆる競技に於いて、フェアプレーを重んじている。
武士道精神が影響し、いきづいているのかどうか。
柔道などでも、外国選手は反則手まがいを使いまくるが、日本選手はきれいな投げの柔道に徹する。
之で良いと思う。勝ちに拘りすぎた外国選手はみっともない。
でも勝つに超したことは無いけど。

8強でも凄いのに、とうとう4強に進出してしまった。
これは1918年熊谷一弥選手以来、日本男子として96年ぶりの4強入りをなんだって。
ランク上位の選手に勝っているので、ここまで来るともっと上を期待してしまう。

by tomiot3 | 2014-09-04 22:09 | よもやま・つれづれ | Trackback | Comments(0)