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示唆に富んだ「いのちフォーラム」

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雨上がりのとりぎん文化会館前のしっとりとした緑が美しかった。
9時前の駐車場は既にパンパン状態、ぞくぞくと人々がやってくる。
それでもまだ県庁地下駐車場は大丈夫だった。
人模様はコンサートとは違った雰囲気だ。
メイン会場の梨花ホールの1階ドアをくぐると大方埋まった客席が目に飛び込んできた。
2階席に移動して客席を確保、まだ少し余裕がありそう。
多くの参加者は医療、介護関係者らしい。
いわゆる直接の当事者や関係者なので、私のような一般人にとって、果たしてどうかなと思いながらも、
在宅ケアに関する話は大いなる関心事。

妻の母は癌のために病院で亡くなった。
その後、後悔した事が二つある。
告知をしてあげなかったこと、もう一つは自宅で終焉を迎えたかったのではということ。
そもそも自分自身は“病院では死にたくない、畳の上で死にたい”等とほざいている。
これに関して、興味深い話があった。
在宅ケアが言われ出してからというもの、相当自宅で最後を迎える比率が高まったのではと思っていた。
ところが実態は相変わらず病院死亡が80%以上という数字が出された。
アメリカや北欧では60~70%だったかな。
わが国ではそもそも昔は自宅でご臨終だったのが、
いつの間にか病院信仰が浸透し、今なおそれから脱却出来ていないという。
要するに病院に行けば何とかなると、そのまま病院でと言うことになってしまう。
つまり管理された医療体制から抜けきれないのだという。
そこには充足された心のケアは期待出来ようもなく、ただ一つの生命の終焉を待つだけと言うことになる。
義母の時に、そのことを強く感じた。
医療体制、つまり医師、看護師、介助者などのバックアップ体制の充実が待たれることは当然だろう。
NhKのドクターGを好んで見ているが、この番組では専門医ではなく、総合診療医が活躍する。
在宅の場合はこの総合診療医の出番となる。
国は在宅ケアを推進しようとしているようであり、自治体でもその様な体制づくりを急いでいるそうだ。
鳥取はどうかな。なになに協議会ができていると言う話が出た。
自身はその実態を知らないので、今後は注目し、関心を持たねばと思った。
在宅だとか、週末、終焉という言葉は自身とその周囲には、どんどん現実味を帯びてきている。
普通に家族と接し、普通に泣き笑い、普通に言葉を交わし、おいしい物を食べ、
いのちの尊さを共有し人生を全うする。
この普通がどんなに大切か。

午後の阿川佐和子×谷川俊太郎の対談風トークの軽快なテンポで眠けがいっぺんに覚めた。
「声のスキンシップ」
冒頭、お二人は血はつながらないが親しい遠い親戚であると紹介された。
つながりを説明されたがまたたくまに忘れてしまった。

声の高低、声音、テンポで伝え方、伝わり方が変わる事例は、
既知なことではあるがあらためて“そうだな”と納得。
そもそもこの地球上の頂点に立つ人間が人間である由縁は、
声を発し、言葉を持ったことである。
そして音楽までも所有した。
人=PERSON 分解すればこれはPER=による SON=音となる。
人というのは音により成り立っているというものだ。
だから音楽は中でも重要な音の表現手段になる。

擬音、擬態語は日本独特な表現であることは知られているところ。
西洋人には通じないという。
虫の啼き声、鳥の鳴き声、風のそよぎなどは雑音に聞こえるという。

お二人の対談に徳永進、細川亮太氏が加わった後半のまとめは、
多くの示唆に富んだお話を得ることができた。
中でも特に印象に残ったフレーズがあった、それは阿川氏の言う。
“言葉を禁止したり、制限してはいけない”
近年の日本では、禁句、言い換えなどがとみに多くなったように思う。
それが今の世に照らすと差別用語であったりするケースがあって、一定の理解はするが、
日本語の多様な表現力をそいだり、果ては日本語の衰退すらを懸念することがある。
不適切だとか言われるとその言葉は消えざるを得なくなる。
制限、禁止の度が過ぎると、むしろ人間の善悪判断の感性を衰えさせ、
いざというときに対応力を失うことになる。
そうしたことがこの世では多すぎると思っている。
私が今まで気にしていたことの幾つかをあげてみる。
学校における小刀の禁止、徒競走の禁止ばなどにより本来の目的が達せられるどころか、
むしろ反対の効果さえ現れていると思っている。
小刀で鉛筆を削り、細工をし、時には切り傷の絶え間がなく、ヨモギを石で叩いて張り付けた。
小刀は何時も砥石でピカピカに研いでいた。
それがのちのち私の生活に生きている。

先日も遊園地の遊具の話が出た。
ジャングルジムやシーソーなど遊園地から遊具が消えているというのだ。
確かに落下だとか挟まれる等の事故がときどき報じられる。
そうすると管理責任を問われるのを怖れるが余り、過剰反応して撤去の方向へと走ってしまう。
しかし、確かに事故は起きなくなるだろうが、
子どもの運動能力や類似の事故での危険回避能力は落ちることになる。

先日、オランダつまり海抜ゼロメートル以下が國土の多くを占め、運河や水路が張り巡らされた国。
子どもの水辺への落下という事例が当然多いと思われる。
だから子どもには、靴を履いたまま、服を着たまま、50メートルを泳ぐ訓練をさせていた。
これなど子どもが自らを守る訓練である。
また自転車王国でもあるオランダ、こどもが片手運転で進行方向を示せるようになるまでは、
公道では自転車運転はさせない。
まさにいかにして子ども自身が自分を守るかということの大人の知恵である。

ちょっと脱線したが、要するに言葉の感性や免疫性を衰えさせる社会は良くないと思う。
それも公権力というか、文科省などがこうした動きを示した時は我々は敏感に反応しよう。

いのち この尊さを今一度嚙みしめてみる日であった。

開会前の雰囲気
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by tomiot3 | 2015-05-16 21:42 | よもやま・つれづれ | Trackback | Comments(0)