カテゴリ:祭事・行事( 9 )

死してよみがえる

親戚の柿田家の訃報があった。
昨夜は通夜に、今日は住み慣れた住まいからの棺出から
葬儀、出棺までお付き合いをした。

母の叔母の嫁ぎ先が郡家の医者だった。
つまり僕の祖母の妹の連れ合いが医者だった。

江戸時代以来医者の家系のようで
柿田家十六代目の柿田東林が医者の傍ら
明治5年の学制発布を受けて郡家学校を開設した。
ということが記された立て札が柿田家の前に立っている。
平成六年に建てられたのだから僕は知る由もないわけだ。
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その立て札の後ろの赤松は江戸時代のものだという。
樹高はせいぜい数メートルだが何かしら威厳のある松だ。

柿田家とは我が家は深い因縁があって、様々なことが思い出される。
戦後疎開者の我が家は貧乏の極みだった。
母の実家の持ち家に住まわせてもらい、畑を借りて自給自足していた。
病気をすると隣村である郡家の柿田に出かけては助けて貰っていた。

小学二年生の時、カボチャの観察をしていて蜂に刺されて
左目辺りがすごく腫れた。
痛さを通り越してしめたと思った。学校が休める!
柿田に行くことになった。
治療をしてもらいご馳走になってルンルンだった記憶が蘇る。

その医者を僕らは柿田のおじさんと呼んでいた。
だから連れ合いも母の叔母だが、柿田のおばさんだった。
柿田のおじさんはいかにも医者らし風格と威厳に満ちて赤髭のような人だった。
本来は神経科が専門であるが田舎医者なのでなんでも来いのようだった。
我が家を筆頭に貧乏人からは金を受け取らないと聞いていたからまさに赤髭だった。
名医の誉れ高く患者は兵庫、岡山からも来ていたようで、
津山などには汽車で往診していた。
今思い出すと診察室は典型的な日本家屋の雰囲気で
江戸時代の視察室とまるで一緒だった。

我が家は本家の都合で住処を次々移る羽目になっていたが、
最終的に母と僕は柿田家の離れに住むことになった。
僕が昭和38年結婚するまで、母は昭和40年我等と同居するまで
柿田のお世話になっていた。
「医は仁術なり」の額が部屋に掛かっていた。

この離れには色々な想い出が詰まっている。
この度天に召されたお嫁さんに二人の娘がいた。
長女は当時高校生、次女は六つ違いだから小学4,5年かな。
長女とは鳥取にコンサートに行ったこともあるし、
次女はしょっちゅう離れの我が家に来ていた。
僕が居ると遊び相手だった。
8畳の間一つだったが、お馬をして部屋中をグルグル回った。
時にはステレオを鳴らしてクラシックなど聴かせていた。

そのうち妻と付き合うようになってから我が家に妻の居場所が増えたので
二人の娘は寂しかったかも知れない。

と言うようなことを先日思い出していた。
半世紀近くご無沙汰して合っていないのでご沙汰のお詫び方々お菓子でも手土産に行こうか。
と真剣に思いだした矢先の今回の訃報にたまげた。

昨夜通夜に訪れたとき、
後を継いでいる次女が玄関に現れた。
すぐに判ってくれた。こちらもすぐに判った。
想像通り普通のおばさんになっていた。
今は東京在住の長女は僕のことがすぐに判らなかったが、
ややあって、あー・・・・さん。

僕の母はとてつもなく明るい人だったのでその印象が強かったらしい。
すぐその話になった。
適当に博学で飾らない人だったのでどこでも人気者だった。
今更のように母の有り難さが身に滲みる。
妻も母の影響を受けているような気がする。

妻の実家も柿田医院と深い関係である。
柿田家の東明さんと言う次男が義父の仲人で養子に入った家と
妻の実家とは親戚であり、我等の仲人はその家の舅さんだった。
さらに東明さんは東京での学生時代、再々我が家を訪れていた。
可愛いお坊ちゃんの僕は東明さんにあちこち連れ回されていた。
だが東明さんは学徒出陣し、敗戦によってシベリアに抑留された。
復員後県庁に勤め、退職後も元気に過ごして、
90歳の高齢ながらこの度の葬儀にも列席した。

縦横に絡まった柿田家と妻の実家、
それに我が家とは深い因縁に結ばれていることが不思議でもあるし、
感動的でもある。

ファゴットの中田小弥香さんとも細い糸ながらつながっていることが判った。
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by tomiot3 | 2010-10-21 21:45 | 祭事・行事 | Trackback | Comments(0)

夏至祭

この辺りでは夏至を祝ったり祀ったりする風習は経験したことがない。
天照大神は太陽の化身として崇められているから、かっては日本各地において太陽神として信仰の対象だったと思われる。
夏至という言葉自体は中国から二十四節気が入ってきた中世以降のようだ。
その後各地で夏至を祝う行事が有ったという。

三重県の二見浦はかって新婚旅行で訪れたことがあるが、
ここでは夏至祭りが行われているようだ。
夫婦岩はこの地のシンボルだが、
夏至の前後二ヶ月間は夫婦岩の間から陽が昇るという。
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北欧の諸国では短い夏の所為もあろうが、夏至祭りが盛んだ。
ことにフィンランドの夏至祭りはかなり以前から気になっている。

長野県小海町はフィンランドと友好提携し、山中の池の畔に
フィンランドログのヤルヴィホール(音楽堂)まで建てて夏至祭りを行っている。
フィンランドはヘルシンキ在住のピアニスト舘野泉氏や和波たかよし氏を招いて
コンサートを催すなど大変積極的だ。
一昨年妻と小海町を訪れて役場職員に案内して貰った。
JR小海線は現時点で唯一ディーゼルハイブリット車両が運行されている。
とにかく年間を通じて平均気温が鳥取よりも2~5℃低いことが分かっている。
夏の涼しさは良いが、冬の寒さしのぎで各家の暖房用石油タンクの大きさが目立った。
長野県全体が魅力的だが小海町も例外ではなかった。

ことしは夏至ウオーキングも催されたようだ。
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by tomiot3 | 2010-06-22 21:18 | 祭事・行事 | Trackback | Comments(0)

小豆がゆ

収穫感謝!
今日は小正月は小豆がゆ、 旧暦の1月15日が本当かも知れないが
毎年新暦の1月15日にしてしまう。
かゆは自作米の餅米とうるち米をミックスして炊いた。
小豆も自作大納言だ。
固めに茹でた小豆を炊けたかゆに混ぜる。
餅は草餅と白餅を焼いて器に入れ
小豆がゆを盛りつけるだけ。
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これは妻の鉢
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大納言がすごく大きく見えるでしょう。

昨年収穫した新小豆だ。
虫食いにやられてしまって決して良い出来ではなかったが食べてみると美味しいよ。
今年は虫対策が研究課題だ。
もっと良いものを沢山作りたい。
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by tomiot3 | 2010-01-15 21:00 | 祭事・行事 | Trackback | Comments(0)

七草がゆ

芹(せり)
薺(なずな)-----ペンペン草。
御形(ごぎょう)---母子草。
繁縷(はこべら)---小さい白い花。「はこべ」。
仏の座(ほとけのざ)-正しくは田平子(たびらこ)。
菘(すずな)-----蕪(かぶ)。
蘿蔔(すずしろ)---大根。


以上が春の七草、分かっているが無かったので使わなかった。
我が家の庭の春菊と西洋パセリそれに大根の葉っぱだけ。
これを刻んで炊けたおかゆに混ぜ、
器には焼いた餅(白と草餅)を入れそこにおかゆを盛る。
これが今年の我が家の流儀。
香りもそれなりに、美味である!
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by tomiot3 | 2010-01-07 21:00 | 祭事・行事 | Trackback | Comments(0)

故小林正義氏の告別式

告別式
米子市車尾の梅翁寺にて14時からしめやかに行われた。
本堂に入りきれず、私ら夫婦も堂外で参加した。
郵政関係者や国民新党の亀井氏(島根県)などをはじめ故小林氏の
生前の活動の広さと全国に跨る知己の多さがしめやかながら盛大な告別式の形にした。

聞けば4月頃から体調を崩されていたという。
先の衆議院選挙前には亀井静香氏の演説に立ち合われ
その場で倒れられたとも聞いた。

喪主である奥様のご挨拶に涙した。
“結婚50年、来年は金婚式でどこかにゆっくりと旅行しましょうよ”
それに対して、故小林氏は優しい言葉で
“御免ね やりたいことがいっぱい有るので 御免ね”

エッセイストとしての著作活動とその整理に一時を惜しむように精魂を
傾けられたのだろう。
郵便の祖、前島密の上下2巻をはじめ、郵政に関する著作は
希有の著として大変に貴重なものだと思う。

その様な故小林氏と奥様は幾度かとっとり楽友協会のコンサートに
駆けつけて下さった。そして心の籠もった論評をして下さった。

エッセイストとしてのペンネームは「神西雅美」だった。
今過去の新聞寄稿をざっと浚ってみた。
長岡京室内アンサンブル、梯剛之そして村治佳織などへの深甚な理解
をもとに音楽的アナリストとしても通用する楽理をも極めたような
評論には深く敬意を表しながら大いに参考とさせていただいた。

民謡歌手原田直之氏は365日毎日絵手紙を書かれた。
幾度も拝見させていただいたが、これなども如何に故小林氏が
人を大切にしたかの証であろう。
原田直之氏の花輪が“ひとりぼっちにしないでくれよ”
と語りかけているようだった。

一昨年原田直之氏が来鳥され、宝林堂とNHKの部屋で講演と歌を
披露された。故小林氏らと囲んだ談笑がなつかしい。

いつぞや米子のご自宅にて見せていただいた立派な書庫と
膨大な蔵書、CDとレコードのコレクションにビックリしたことがある。
氏は著作の時にどんな音楽を聴きながらペンを走らせたのだろうか。

今となっては氏の手書きの原稿、ハガキ、手紙の数々が無性に懐かしい。
持正庵智岳義哲居士 享年75歳

お世話になりました。ありがとうございました。
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by tomiot3 | 2009-10-28 21:07 | 祭事・行事 | Trackback | Comments(0)

小林正義氏の訃報

今日の新聞で知った
25日に肺炎で亡くなられたとの報
妻共々ビックリと同時に信じられない心地だった

今までとっとり楽友協会コンサートへの応援寄稿は数知れず
遠路米子からも幾度か駆けつけて下さった。
卓抜な識見は音楽のみならずエッセイスト小林正義氏の
活躍の場は大海原のように広く、深海のように深かった

私とは3つ違い、さほどの高齢ではなく
これからも活躍が約束されていただろうに

今回の村治佳織さんの案内を躊躇してしまった
先の選挙で多忙を極められたことが容易に想像されたからだ
これはいけなかった

2005年の村治佳織さんには来ていただいた
ああ無念!
鳥取には絵手紙の講師として再々来られていたが
最近はとんとお会いしていなかった
不義理をしてしまった後悔はつらい

明日は葬儀、何が何でも駆けつけて線香の一本でもあげねば

妻が言う
“小林さんにはもう会えないね・・・” 
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by tomiot3 | 2009-10-27 20:45 | 祭事・行事 | Trackback | Comments(0)

無念!原野亀三郎さん命日

昨日がそうだった。
一昨年の6月28日、新潟県から長野県に入る国道のトンネルで
後ろからのトラックにはねられた。
自宅まであと30キロ位のところだ。

原野亀三郎さんと出会ったのは6月2日だった。
人生80年の挑戦 祈念平和日本列島遍歴 原野亀三郎
と言う名刺を頂いた。
因幡自転車道でしばし休憩されていたところでお話しした。
沖縄から北海道まで、くまなく自転車の旅だ。
東京の方だが、会社引退後は長野県小川村を拠点に全国行脚している
とのこと。
小川村は私の好物の長野名物「おやき」で村おこしをしたので有名だ。

出会ったときは、名刺と同じキャッチコピーを印刷したTシャツ姿、髭ボウボウ、
メガネにヘルメット姿で背筋がしゃんとした人だった。
自転車は荷物満載で重そうだった。
ボン・ボワイヤージュが通じなかった。

訃報が全国版テレビ、新聞などで報道された。
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by tomiot3 | 2009-06-29 21:39 | 祭事・行事 | Trackback | Comments(0)

しろみて考

村全体の田植えが終わった後、村人が集まって宴をする行事を
しろみて と言っていた。
幼かりし日の想い出のひとつ。
しろみてでは、ぼた餅が食べられるので楽しみだった。
我が家は町人であったが、田植えの手伝いをしていたのでご相伴にあずかる訳だ。

我が家としては、今年始めて田植えを行うので しろみて 
が楽しめる。
ただ今もその風習が残っているかどうか。
どちらにしてもやろうと思っている。

しろみてってどんな字?と言う会話があった。
しろは代、みてはみて、といい加減な返事をした。
色々意見が出たが、みつるの満(みて)ではないの?
と言う意見が出た。一同フームそうかも知れない。で一致した。

早速調べてみた。
鳥取弁辞典というのが見つかった。
まさにその通りの正解だった。えらい!

標準語?では さなぶり(早苗饗)と言うのだそうな。
奈良の橿原にさなぶり餅という土産物があると言うから
一度確かめなくては。
さのぼり(早上り)ともいう。

農村の近代化と共にこうした行事も薄れていくのだろうか。
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by tomiot3 | 2009-05-31 22:48 | 祭事・行事 | Trackback | Comments(0)

村祭り

午前中の籾蒔きを終えて、船岡(鳥取県八頭町)の祭りに呼ばれた。
この祭りの由縁など何も知らずにふらり。
獅子舞、榊、稚児行列、旗、御輿と一日中各戸を巡るのである。
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祭り主宰者とおぼしき人に起源など尋ねたが要領を得なかった。
親戚の者に次の資料を見せて貰ったので、そのまま紹介する。
この祭りは、寛永4年(1927年 382年前)鳥取藩主池田新太郎光政公
の家老丹波山城守がこの地の領主になったとき、弓二張り、鏡一面を寄付し、
旧暦9月9日を祭礼の日と定めて、五穀豊穣、無病息災、家内安全を祈願する
神事として厳粛に執り行われた。
その後、鳥取藩主が池田光仲公に代わり、家老乾氏がこの地の領主となったが
やはり祭りに力を入れられ、鳥取市の樗谿神社の権現祭りの形式を取り入れ
行列形態で神幸祭を行い、その伝統が今日まで引き継がれている。
 日中・太平洋戦争中、神幸祭は途絶えたが、昭和24年に復活、5年、3年おきに
執行して本年は戦後17回目である。

御輿は派手な飾りこそないが、質実剛健の重厚な造りで2トン有るという。
御輿自体、相当由緒ある代物のようである。
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今は担ぎ手が少なく、2トンを支えるのは大変と言っていた。

この近在で、この様な村祭りが執り行われるのは船岡以外では聞いたことがない。
船岡の地名から察するに、近くを流れる千代川支流八東川の船着き場があって、
船交易の重要地点として位置していたのでは無かろうか。
重要拠点であるが故に、家老を配して領主とした。
以上私の推測。

若桜鉄道の郡家駅を出ると最初の駅が、「因幡船岡」である。
(失礼、今は八頭高前があるので2番目)
八東川に架かる鉄橋の赤さびが気になった。
カーブしている鉄橋だ。
子供の頃、この鉄橋の細い敷き板を歩いて渡った記憶が蘇る。
数百メートル下ると因美線の鉄橋がある。
その鉄橋もちょくちょく渡っていた。
渡っているときに汽車が来ることもあって、
途中2カ所に待避デッキがあるが、ポーッと汽笛を鳴らされる。
私ではないが、待避デッキに行きつけないで列車を止めた子もいた。
今で言う列車妨害に当たる。
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by tomiot3 | 2009-05-03 21:00 | 祭事・行事 | Trackback | Comments(0)