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レナード・バーンスタイン追憶

昨日「佐渡裕バーンスタインを語る」がハイビジョンで放送された。
その中で語られた初来日のこととバーンスタインが体調を崩して急遽帰国した話は
大変身近なこととして僕の心を揺さぶった。

初来日はニューヨーク・フィルと1961年4月、大阪での演奏会はサンケイか毎日ホールだった。
当日のプログラムを探したがすぐに出てこなかった。
曲目はバルトーク/管弦楽のための協奏曲、ベートーヴェン/運命、
それにもう1曲ぐらいは有ったかな。
若いバーンスタインがフォルテのとき指揮台で飛び上がるのがすごく印象に残っている。

バーンスタインは音楽教育にも力を入れ、札幌PMFを立ち上げた。
1990年札幌PMFを終えたバーンスタインはかなりの疲労の様子だった。
誰にも明かしていなかったが末期ガンだった。
疲れた表情もそうであるが、声もガラガラで明らかに様子がおかしかった。

その後、ロンドン交響楽団との日本公演、東京で2公演を済ませてから
急遽帰国してしまった。体調が限界に達していたことを後から知った。

大阪ザ・シンフォニーホールでの公演を聴く予定だったが、
代役として常任のティルソン・トーマスに代わった。
この時7千円のキャッシュバックがあったことが忘れられない。
だから最後のバーンスタインを聴くこと叶わずとなった。
帰国後の8月19日にボストン交響楽団を指揮してブリテンの「ピーター・グライムス」
より「4つの間奏曲」とベートーヴェンの「交響曲第7番」を演奏した。
これが最後の演奏会となって、10月14日ニューヨークにて永眠した。
(1918.08.25~1990.10.14)

愛弟子の佐渡裕はバーンスタインの意志を引き継いだ。
最後バーンスタインが帰国の途の空港で ビッグ グッバイ と言って消えたそうだ。
佐渡裕はこの時初めてこれが永遠の別れだと悟ったようだ。

バーンスタインとウイーン・フィルの蜜月も印象深く、
ベートーヴェン全集は大事な宝となっている。
又マーラー演奏にかけては、同じユダヤの血が成せるのだろうかと思うほどに
もの凄く粘っこく、ロマンチシズムの極致とも言えるマーラーである。
同時に彼は日本の能に魅せられていたと言うから、
極限までに動きを抑制した能の心で表現していたのかも知れない。

あるとき、ウイーン・フィルのコンサートマスター、キュッヒルさんに
指揮者のことについて尋ねた。
バーンスタインについてどうですか。キュッヒルさんの反応は余り芳しくなかった。
やはりアメリカ人のバーンスタインとはどこかで違和感が有るのかなと感じた。
“一番どの指揮者とやりたいですか”これには明確にカルロス・クライバーと返ってきた。
ドタキャンされてもやはりクライバーは別格だったようだ。

by tomiot3 | 2010-11-26 21:00 | 音楽よもやま | Trackback | Comments(0)