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中島菜刀展

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出身地が我が郷里とそう遠くないとは知らなかった。

この画帳は1995年に出版されたが、編集者が知人だったので購入した。
一通り目を通しただけで、18年も眠っていたのだ。
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展示を見ていうちに、二つの茶碗に目がとまった。
因久山焼きに菜刀が絵付けしたものだ。
昭和10年とある。もしや先祖の焼いたものでは?

実は我が母の実家は因久山窯元だった。尾崎家という。
祖父の代の途中まで窯を開いていた。
昭和19年に疎開してきた時は、蔵が5つと、池田候が駒を繋いだという駒止の松、
5~6段(もっと在ったかな)の登り窯、それに広大な屋敷跡が残っていた。
母からの言い伝えでは、祖父はときどき絵付けをしていたと聞いている。

そして昭和19年疎開し母の本家に世話になった時、食事の茶碗は因久焼きだった。
戦後しばらくまでは、蔵も残り、登り窯跡、職人の作業場などが残っていた。
戦後の農地解放で田畑を失い、切り売りの対象が、前出の蔵の中身から始まり蔵本体、
屋敷、窯の煉瓦が次々に消えていった。

祖父は国中村の村長をやった人で井手改修などもやり人望があったと聞く。
ところが鳥取の街で質屋や下宿屋を営み、挙げ句は上町芸者と懇ろになった。
実質的に本家を出たことになる。
下の写真は大正6年、母の今で言う小学校の卒業記念。
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この時、祖父は村長で写っている。真ん中一人左の髭おやじがそうだ。
母はその2段うしろに居る。
村長列の向かって右二人目は甥の古井万寿治(ずっと後年初代郡家町長)、
のち私が疎開転校した時は、国中国民学校の校長だった。
後年、母が東京在となり、一時帰郷した時の写真。
この時、祖父も祖母も健在、真ん中のばあさんは姑、
祖父は池田の古井家から、祖母は曳田の鳥越家からの夫婦養子だった。
祖母りつはきつい姑に支えたという。
その左隣が母と長女。姑の少し右後列が、祖父龍造と祖母りつ。
大正末期の風俗模様なのかな。
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館員に出展されている因久山焼きについて尋ねたが、不明であった。
専門家がお出ましの木曜日に改めてお訪ねすることにした。

今日は思わぬ事で古(いにしえ)の記憶薄れることを辿ることになってしまった。
いずれ探求しておかねばならない事のひとつであったから。

by tomiot3 | 2013-09-16 21:13 | 文化・芸術 | Trackback | Comments(0)