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10月10日は何の日

3月10日、この日は少なくとも年一回は必ず思い起こすことになっている。
東京は深川、本所、浅草、日本橋が大空襲を受けおよそ10万人が死んだ。
その僅か数日後の3月15日は蒲田、大森地区の爆撃でわが家も灰になった。
長さ50センチの筒が束ねられゼリー状のガソリンが詰められ空中で散弾のようにばらまいた。
いわゆるクラスター焼夷弾、ベトナム戦争の時はナパーム弾と呼ばれた。
木造の日本家屋には最大の効果を発揮してしまった。
後年、隅田川と橋を見る度に多くの人々が水へ水へと誘われ亡くなられた光景が思い浮かぶ。

自分は前年の夏に田舎に疎開していたので、爆撃のものすごさの様子はすべて親から聞いたこと。
兄や母親は蒲田爆撃前に田舎に引き揚げきたが、父と長姉は仕事の関係で東京に留まっていた。
そして蒲田の空襲ですべて焼け出され引き揚げてきた。

本所方面の爆撃の時は蒲田からもB29の大編隊がドロドロと爆弾を落とし、
轟く音と閃光はまるで花火のようでも有り、空は真っ赤に染まったという。

爆撃の恐怖は直接味わったことはないが、昭和17年(1942)4月18日
空坊ホーネットから飛び立ったノースアメリカンB-25(ドゥーリットル爆撃隊)16機による空襲があった。
この時は日本の主要都市を爆撃し、東京は府中の中島飛行機工場が目標だった。
当時はうろ覚えが有るようなないような、覚えているのはやはりB-25が偵察にやってきた時、
空襲警報発令を覚えている。高空をキラリキラリと飛んでいるのが印象的だったのだろう。
この頃はまだ空襲の恐怖感はなかった。

空襲の計画立案・指揮官のカーチス・ルメイ大将は皮肉にも航空自衛隊の創設に貢献したとして、
勲一等旭日大綬章を授けられている。
ルメイは東京の木造都市を研究熟知し焼夷弾で効果的に焼き尽くす事に成功した訳だ。
超低空で進入し焼夷弾をばらまいた。
しかも輪を描くようにまず爆撃し、10万人以上の人々が焼き殺された。
いわゆる非戦闘員を目標とした無差別爆撃を行った訳だ。

明日は東日本大震災の日。
儘ならぬ復興にいらだつが、一番のいらだちは現地の人。

なぜこんなに遅れているのか、行政組織、リーダー不在に加え復興庁は機能しているのか、
おそらく各省庁の縄張りが阻害要因のひとつになっているに違いない。
また遅れによる先行き不安が住民の意識変化を誘い阻害要因になっているように思える。
明日はもっと東日本大震災のことを考えて見た気分だ。

by tomiot3 | 2014-03-10 18:58 | よもやま・つれづれ | Trackback | Comments(0)